今を遡ること170余年、激動の幕末期に入ろうとする頃、阿波國香美村において三浦家第四代・村次は農業の傍ら養蚕や藍の栽培・すくも作りを営んでおりました。面倒見がよく、地域のための奉仕活動などにも熱心であったようで、私有地を提供して道路や排水路を作ったり、近隣にある四国八十八か所の十番札所・切幡寺への道標を設置したりしました。それ故、地元の人々からも「むらいさん」の愛称で親しまれ信頼をいただいていたようです。同村内から当家に嫁した村次の妻ヒサは行き届いた心配りのできる働き者で、村次をよく支え、工夫を凝らして家の切り盛りに努めたしっかり者であったと伝えられています。
嘉永年間のある年、大豆が殊のほか豊作であった折に、村次の妻ヒサは「ねさし味噌」をたくさん作り、近隣の人々に「どうぞお味見を」と分けて回ったそうです。その評判が良かったことを受けて、ヒサは自らの嫁入り衣装であった丸帯を元手に、醸造業を夫に勧め「三浦のねさし味噌・醤油」の醸造を始めたことが当家の生業のはじまりと伝えられております。当家の所在地であります阿波市市場町町筋の古い「数え唄」にも♪六つむらいさんくの味噌・醤油♪と歌われており、地元の方々に親しまれていた当時が偲ばれます。(注:むらいさんくは阿波弁で「むらいさんの家」の意。この数え唄には十軒の商家が歌われていますが、現在も営業を続けているのは当家だけとなりました。)
村次の後を継いだ当家第五代・廣平が二代目杜氏となり、以降当家では初代から伝わる「ねさし味噌」と「濃い口醤油」の味を代々受け継ぎ、醸造を続けて参りましたが、歴史に暗い影を残すこととなった太平洋戦争期は、当家にも大きな変化をもたらしました。味噌・醤油の原料である大豆や麦、塩が配給制となり、十分な原料が確保できないことから減産、ひいては醤油の醸造の中止を余儀なくされてしまったのです。四代目杜氏・重信は後に当時を振り返って、「配給ゆうても、大豆はちょっとしか来ん。代わりにエンドウ豆やそら豆が来る。麦の代わりにはふすま、塩は三等塩やから、かまぎ(注:莚で編んだ袋)に入れてつったら(吊るしたら)湿気を吸うたニガリがぽたぽた落ちよった。なんぼええ味噌作ろうと思うても、作りようがなかった。」と語っています。その窮状を見かねた重信の妻・方子は貴重な食料と引き換えに、苦労して大豆を調達してきたそうです。
その後、原料の確保が安定してくると、町内にあった製糸工場で働く女工さんの寮へ「月に4斗桶(72L)に2本売れる勢い(重信談)」の納入をするなど、需要の拡大に支えられ味噌の醸造は順調に伸び、使用人も家人も総出で家業に励む日々が続きました。「面白いようにお味噌が売れて、毎日みんなで精を出して仕事をしよりました。私も自転車の荷台に桶を括りつけて製糸工場に配達に行ったことがある……家内中に活気があふれとる時代やった。」と先代の娘であり現当主である五代目杜氏の母は、生前懐かしそうにそう語っておりました。
そんな良き時代もつかの間、高度経済成長期に入るにつれて製糸業が衰退し、また、核家族の増加や洋食化・外食を好む食卓の変化などの影響も受け、需要の低下という新たな窮状に直面することになります。それを切り抜けるため、先代は安価で入手できる中国産やアメリカ産の輸入大豆を原料にし、生産コストをおさえた醸造へ移行していく道へと進みました。さらに石油危機の煽りを受けて、一時的に在庫が品切れ状態となり、十分な熟成を待たずして不本意な若い味噌の販売を余儀なくされるという不運が重なりました。
戦前・戦中、そして戦後の激動の時代にあって、先代はまさにその光と影をつぶさに味わったといえるでしょう。
さて、昭和59年、大学卒業後、東京の大手スーパーに勤務しておりました現在の当主・五代目杜氏は先代の後を継ぐことを決意し帰郷、杜氏としての道を歩き始めました。時代はまだ輸入大豆をもてはやしておりましたが、食の安全と美味しさというふたつの観点から、国産大豆100%のねさし味噌の醸造に切り替えました。また、手さぐりではありましたがコツコツと研究を重ね、1995年より「麹味噌」の醸造も手掛けるようになりました。(麹味噌は醸造開始時より100%国産の大豆と米を原料に使用)経済優先の世の中の流れの中で、加工食品やインスタント食品が隆盛を振い、若い世代の人々の和食離れが進む中、癖の強い昔ながらのねさし味噌だけでは、活路を見いだせないと感じていた五代目は、より一般的に好まれている麹味噌の醸造に取り組もうと考えていました。仕込むなら本当に美味しいものに仕上げたい、しかし、本当の美味しさとは何か……と自問し試行錯誤を続けていたときに、ある自然農法家の方と運命的な出会いを果たします。無肥料・無農薬にこだわるその方の実践、自然に対する謙虚で真摯な姿に感銘を受け、自らもそうした農法に取り組むとともに「安心・安全な原材料を用いたおいしい味噌づくり」を目指すようになりました。
麹味噌の醸造の他にもう一つ、五代目には実現させたい夢がありました。それは、戦争期からやむなく中止しておりました天然醸造無添加醤油を復活させることでした。あの古い数え唄にあるように再び♪むらいさんくの味噌・醤油♪を仕込み世に送り出したい、昔ながらの長期熟成、本物の美味しい醤油を仕込みたい、その想いから五代目は醤油の醸造にむけての研究と準備に取り掛かることにしました。
醤油の醸造については新しく許可を取ることになりますからそのための施設が必要になります。更に全行程を一つの蔵で行う「一環生産」形式による醸造に必要な設備、安全な国内産原料の確保も不可欠です。しかし、アミノ酸や防腐剤が添加された安価な醤油が大量生産される現代において、当家のような小さな醸造所が購入できる価格やサイズの機器はほとんどなく、また、どこへ相談に行っても「今から醤油を始めるのには何千万という資金がかかる」「安く手に入る醤油がいくらでもあるのに、そんなコストのかかる醤油を作って何になる」といった反応ばかりでした。
けれども、実現が困難だからこそ夢は輝きます。それならば、なるべくお金をかけずにすむようにと、セルフビルドによる蔵の建築に着手しました。幸い、当家に出入りの桶職人が建築の仕事にも携わっており、親身になって指導や助言をしてくれました。もともと手先の器用さには自信があった五代目、いざ作業に取り掛かると忽ちにその作業の魅力に魅せられてしまったのです。
おいしい味噌や醤油をこの手で仕込みたい。
原料もなるべく自分で生産したい。
それを仕込む蔵もこし器も”くど”も麹室も、
作れるものはみんな自分で作る……
手作りの蔵で、手作りの道具で、
手作りの安心・安全な美味しい味噌と醤油を!
夢はどんどん膨らみます。が、財布はそんなに膨らみません。潤沢な資金もなく、日々の仕事や農作業の合間を縫っての作業だったこともあり、蔵の完成までにはなんと15年の歳月を費やしました。「はよう頑張らんとお蔵が出来た頃には年とって仕事が出来んようになるよ。」と冗談交じりに母に励まされ、「醸造元に嫁いで大工さんや左官さんのような仕事の手伝いするって、なんか不思議やなぁ」と妻が笑いながら慣れない手つきで手伝います。そんなゆるやかな時間が少しずつ積み重なって、夢の蔵は完成を迎えました。子どもが育つのに長い時間がかかるように、苗木が結実の時を迎えるのに幾つもの季節が必要なように、自らの想いを確かめながらの作業には必要な時間であったのだと、今、この小さな手作りの蔵の前に立ち、しみじみとそう思います。
平成22年1月29日。三浦醸造所五代目杜氏とその家族、先祖の夢が一杯つまった新しい蔵に認可が下りました。